矢倉復活への道筋

Vol.2 矢倉の歴史を振り返る その3  2018.11.11

5 昭和30年代 (4) 腰掛銀への対策 その1

 前回解説したように、昭和30年代前半の相矢倉戦においては、▲4六歩(△6四歩)から腰掛銀に組む形が流行した。特に、当時は居飛車党だった大山、升田の両巨匠によるタイトル戦の大舞台にて、相矢倉でお互いに4筋(6筋)の歩を突き合う形が頻繁に指された。
 今回は、矢倉腰掛銀に対する有力な対策として指されるようになった、急戦矢倉の形を見ていく。

 

 第1図の先手の陣形は、矢倉囲いの整備を後回しにして、早めに▲3七銀と上がって急戦の構えを見せている。腰掛銀に対する対策として、昭和30年代の中頃から指されるようになった形である。

 対して後手陣は、5筋の歩を突いていないため、現状は角が使いにくい状態になっている。△3一角は、4二から5一、そして8四へ転換する「四手角」の形を狙っており、じっくりと矢倉に囲うような持久戦になった場合は、△8四角の睨みと△5四銀の協力による△6五歩からの攻めが受けにくい。そこで、四手角に相当な手数がかかるのを見越して、先手は▲3七銀を活用した早めの攻撃を仕掛けていく。


【第1図以下の指し手】
▲3五歩 △同 歩 ▲同 角 △4五銀 (途中図) ▲2四歩 △同 歩 ▲同 角 △同 銀 ▲同 飛 (第2図)

  

 先手はまず、▲3五歩から3筋の歩を交換していく。現代であれば、こうした先手の早い動きに対しては、△6四角と覗いて牽制するのが定番であるが、後手陣は角が使いにくい形になっている。

 ▲3五同角に対し、おとなしく△3四歩と受ける手に対しては、▲6八角と引いた後、▲3六銀と立つ形が好形で、先手有利となる。そこで、3筋の歩を打たずに△4五銀と出て、▲3六銀の好形を阻止するのが、この場合の受けの形である(途中図)。

 途中図からは穏やかに駒組みしても先手が指せる形勢であるが、後手が△3一角と引いた形を咎めて、▲2四歩からの強襲が成立する。一見すると、角銀交換の駒損で無茶な攻めをしているように見えるが、第3図となってみると、次に▲2一飛成と▲4四飛(王手銀取り)の2つの狙いを同時に受けることが難しい。


【第2図以下の指し手】
△1二角 ▲2八飛 △3六歩 ▲2六銀 (第3図)



 第2図の局面で、▲2一飛成と▲4四飛の両方を受けるには、△2二角と上がる手が考えられるが、それに対しては▲3三歩の叩きが痛打で、以下は△同桂に▲2三銀で潰れている。

 そこで、後手はやむを得ず持ち駒の角を使って△1二角と受けることになる。対して先手は調子に乗って▲4四飛と横歩を取ったりすると、△4二角と上がられて、おかしくなってしまう。先手は何もせず、黙って▲2八飛と引き上げておくのが良い。

 △3六歩と抑えた手に対し、▲2六銀とかわした第3図は、角銀交換で後手が駒得しているものの、大駒の働きが大差のため、先手優勢である。


6 昭和30年代 (5) 腰掛銀への対策 その2

 次に、その1の変化を踏まえた上で、第1図からの実戦の進行を見て行こう。昭和35年6月12、13日に行われた第19期名人戦第6局 大山康晴名人vs加藤一二三八段戦である(肩書はいずれも当時)。神武以来の天才と言われた二十歳の加藤一二三八段が、A級初参加の年に名人に初挑戦したシリーズである。第1局を快勝した加藤八段だが、第2局以降は大山名人が力を発揮して3勝1敗で防衛に王手をかけた一局で、千日手の指し直し局でもある。

 千日手局は、後手番の大山名人が矢倉模様の出だしから陽動振り飛車にして、先手の加藤八段は仕掛けの糸口を見出すことが出来ず、開戦前に千日手となった。当時の規定により、日を改めての指し直しとなった本局は、大山名人の▲5六歩型の矢倉に対して、後手番の加藤八段が△6四歩型で対抗し、第1図の局面となった。


【第1図以下の指し手】
▲9六歩 △8五歩 ▲3五歩 △同 歩 ▲同 角 △4五銀 (途中図) ▲6六歩 △6三金 ▲6七金右 △3一角 (第4図)

  

 ▲9六歩は間合いをはかった一手で、△3一角と引いてくれるのを待った意味がある。角を引くと、3筋交換後に▲2四歩からの強襲が見えているので、△8五歩と飛車先の歩を突き、形を崩さずに手待ちをした。

 ▲3五歩からの歩交換に対し、△4五銀は▲3六銀の好形を阻止する手筋の一手である。本局は後手が警戒して△2二角型で待ったため、「その1」で見たような▲2四歩からの強襲は成立しない。

 途中図から、先手は▲6六歩と突いて、矢倉囲いの構築を目指す。対して、△5六銀と歩を取る手が気になるが、▲4六歩の銀ばさみの手筋があるので、大丈夫である。△6三金は出来れば上がりたくない金であるが、△3一角と引くために必要な一手であった。

 後手が△3一角と引いて角の活用を図ったのが、第4図の局面である。▲2四歩の強襲ははたして成立するのだろうか?


【第4図以下の指し手】
▲7九玉 △4二角 ▲8八玉 △3四銀引 ▲6八角 △3一玉 ▲3六銀 (第5図)

  

 第4図から、▲2四歩以下、「その1」で成功した強襲を仕掛ける変化は、以下の手順で無理筋となる。

【第4図以下の変化手順】
▲2四歩 △同 歩 ▲同 角 △同 銀 ▲同 飛 △2二角 ▲2三銀 △3三金 ▲2八飛 △2七歩 ▲同 飛 △3八角 (変化図)

 第4図では、後手の飛車の横効きが遠く2二の地点まで効いていることと、先手陣の右金が6七に上がって右翼が手薄になってしまっていることの2点により、軽く△2二角と上がる手で受かってしまうのである。後手陣の飛車の横効きにより、▲3三歩の叩きは△同金で無効である。先手は勢い▲2三銀と打ち込んで攻めの継続を図るが、△3三金と上がってかわし、△3八角と打ち込んだ変化図の局面は、後手が有利である。

 実戦では、大山名人はこの変化を自重して駒組みを進めた。▲3六銀と好形に構えた第5図は、陣形の安定度と角の働きで勝る先手が有利である。以下、終盤での加藤八段の入玉含みの粘りによって169手の長手数になったものの、終始優勢を維持した大山名人が勝利して、名人位防衛を果たした。


 以上、2つの例で見たように、先手に▲3七銀型の急戦矢倉で早い動きを見せられると、後手陣の立ち遅れが目立つ展開になりやすく、腰掛銀は次第に指されなくなり、現代のようにお互いに5筋の歩を突き合う矢倉が主流になっていった。

パナソニック将棋部ホームに戻る
inserted by FC2 system